8/6帰国(バンクーバー〜シアトル〜東京)
[2002年カナダ旅行記目次]
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*8/6帰国(バンクーバー〜シアトル〜東京)*

 今日は、帰国の日だ。昨晩の内に目覚ましをセットし7:00に目を覚ました。昨晩はもっと夜遅くまで遊んでようと考えていたが、それは中止して正解であった。

 荷物を完璧に整理をし、歯を磨いて8:30に宿のチェックアウトを済ませた。今日は11:30の飛行機にのり、シアトル経由で東京の成田へ戻る事になっている。フロントでタクシーの手配をお願いしたら、
「あそこに、タクシー会社のホットラインの電話があるのでそこからかけて。」といわれそれに従う事にした。電話はどうも苦手だけど、背に腹を変えられないので電話を書ける前に英語で言うセリフを練習しながら電話をかけた。
「すいません。タクシーをお願いします。場所はYMCAです。」
「了解。お名前は?」
「B−Yです。何分位でこちらにつきますか?」
「約30分位かな?」
「では、お願いします。」
ふー、何とかできた。

 タクシーを待ってる間、フロントにある有料のインターネットで15分程時間を潰し、その後宿の前でタクシーを待つことにした。タクシーはブラックトップキャブという所でバンクーバーではよくみかけ屋根が黒い車体のだからすぐにわかる。

 しかし、30分過ぎても一向にタクシーが来る気配がない。道路の向こうから、そのタクシーがきても、既に客が乗ってるか、素通りしてしまう。45分が過ぎた。段々俺も少々苛ついてきた。
「くそっ、30分もとうに過ぎているのに、なにやってるんだ。」
1時間が過ぎた所で、俺はそのタクシーが来るのを諦め、自分で探すことにした。しかし、流しのタクシーは中々つかまらない。俺のフライトチケットは格安チケットだから、へたに遅刻して乗り遅れでもしたら全てがパーだ。
「そうだ。どこか高級そうなホテルに行こう。あそこならタクシーが沢山止まってるはずだ。」俺は94年にバンクーバーへ来た時のことを思い出した。あの時は、そこそこいい所のホテルに泊っていて、ホテルの前に沢山のタクシーが止まっているのを思い出した。

 とりあえず、ホテルバンクーバーという高級ホテルまで歩いていった。手ぶらならまだしも、糞重い荷物を背負っての歩きは非常に辛い。しかし、そのホテルにいっても周りに何故かタクシーが一台も止まってなかった。交通渋滞を避けるため、なにか条例でもできたのであろうか?次なるホテルはホテルジョージアに言ってみた。ここは以前来た時に泊まったことのあるホテルだった。ここならタクシーが止まってるかなとわずかな望みをかけて行ってみたら、ここも同じく一台のタクシーが存在しなかった。時間は刻々と過ぎ去っていく。

 しかし、幸運が訪れた。信号待ちのタクシーを偶然みつけ、しかも乗客が乗っていない。
「よっしゃー。あれだ!」
タクシーのそばまで駆け寄り手を上げた。俺の姿をみた運転手が親指で後部座席を指さす。荷物が馬鹿でかいのでトランクを開けてもらい、そこに放り込んだ。
「やったー、これで一安心。」と心の中で叫んだ。
「すいません。バンクーバー国際空港までお願いします。」
「了解。」
タクシーは発車した。時間は10時をちょっと過ぎていた。ダウンタウンは信号が多いため、なかなか郊外にでれない。俺がちらちら時計をみてると運転手が
「フライトは何時?」
「んん?10:30。」
「まじか?こりゃ飛ばさないと。」
「ああ、すいません間違えました11:30です。ここから何分くらいですか?」
「20〜30分位かな?」
10:30頃到着か、まあ何とかなるだろう。後部座席で俺は思いっきりくつろいだ。なんだか疲れがどっと出てきていやになる。

 空港が見えてくると、運転手がどのエア会社か尋ねてきたので、ノースウェスト航空と教えた。航空会社のカウンターの近くまで行ってくれた。無事空港に到着し、運転手にはちょっと多めにチップを払った。

 やれやれと思い空港内に入ると、まだまだ安心はできず、再び緊張が襲ってきた。チェックインカウンターがえらい行列で並んでいる。
「あちゃー、なんでまたこんなに混んでるんだ?」とりあえず並ぶしかない。一難去ってまた一難。なんだか今日はついてない。並んでる最中に近くに航空会社のスタッフが手にカードを持ちながら必要な人に配っていた。そのカードは税関申告や入国カードだ。そうだ、俺はこのまま日本に帰るのではなく、一旦アメリカに入国をして、そこから日本に帰らなくてはならないのだ。その上もう時間がない。ええい、まとめて聞いてしまえ。そのスタッフを呼び、自分の帰りチケットを提示しながらアメリカ経由で日本に帰るんだけど、そのカードは必要なのと質問した。スタッフはチケットを見ながら、手に持っている様々なカードからピックアップしてくれて俺に渡してくれた。カードは日本を出国した時のと同じであったが文が全て英語であった。「日本語のやつない?」というと申し訳なさそうに「ありません。」といわれてしまった。列にならんでから20分位してようやく俺の番がまわってきた。荷物を渡し、チケットも提示した。受付のスタッフは俺のフライト時間を確認して、困った顔をしながら、
「あ〜、あなたこれから全部走りながらいかないと間に合わないわよ。」といわれてしまった。
やばい、スタッフも困惑する程間に合わない時間なのか?スタッフはその後、
「手荷物のバッグにナイフとかPCとかは持ってない?」と聞いてきた。俺も時間がなくて苛ついていたので
「(そんなもん持ってる訳ないだろうと思いながら)ないない。ありません。」とつっけんどんに答えた。
「ウォークマンは大丈夫?」
「それは大丈夫です。」
チェックインを済ませて、いそいで自分の乗る搭乗ゲートまで行こうとしたら、再び長蛇の列が...。
「今度は何の列だ?」
どうやら、出国審査と手荷物検査と金属検査の列だ。例のNYのテロ以降、非常に厳しくなっている。そして列に並びながら、空港使用料を払い、まずは、出国手続きだ。アメリカの入国審査も同時にやってるのか、質問内容が、
「米国へは何をしに?」
「ただのトランジットです、そのままシアトルからこの便で日本へ帰ります。」とチケットを見せながら答えた。審査官は大きな声でカタコトの日本語で、
「ドウモー、キヲツケテ、サヨウナラ」といいながら俺のパスポートにスタンプをドンと押した。

 再びその検査の列に加わった。出発まで30分を切ると、イライラは頂点に達してきた。「やばい。時間がない。早くしろ。」心の中で、何度も叫んだ。ふと誰かが、列からはずれあっという間に検査を終えてしまった。どうやら、フライトまでの時間に間に合わない人らしい。「よし、俺もこの手を使おう。」と俺も近くにいるスタッフにエアチケットを見せながら、
「すいません、この時刻の飛行機に乗らなければならないので、先に検査できませんか?」といったら、冷たくあっさり、「ノー」と言われてしまった。がっくり。

 検査はフライト時刻の20分前に通過することができた。ここまでくればあとはもう楽だ。いや、待てよまた何かあるかもしれない。安心感と不安が入り混じりながら搭乗ゲートまで早歩きで向かうことにした。無事目的の搭乗ゲートに付き、フライトナンバーを今一度確かめ、スタッフにチケットを渡した。そして一旦空港の地面に降りてそこから俺の乗る飛行機まで歩いていった。


バンクーバー〜シアトルまでの飛行機。ホライズン・エアー会社であった。空港の地面を直にあるいて搭乗。

飛行機はとても小さくプロベラ機でした。


 飛行機はとても小さくプロペラ機であった。ちょうど俺の荷物もベルトコンベアで、その飛行機に積み込まれているのも確認ができ安心ができた。飛行機にのると、席はほぼ満席で、最後の搭乗者は俺だけであった。

 座席にすわり、ようやく一安心できた。後は、墜落でもしない限り、無事成田へいけるだろう。バンクーバーからシアトルまでは約1時間の短い距離だ。ぼーっとしてる間にあっという間につく。

 俺の隣に座っていた、東洋人の若者が話し掛けて来た。どうも、俺を韓国人と思ったらしい。
「君、韓国人?」
「いや、日本人だけど。」
「XXXって食べ物しってる?」
「いや、知らん。」
「韓国のジャンクフードさ、ハハハ。」
彼はタコマに住んでる、コリアン系の米国人。アラスカを旅してきて、これから帰るところだと言っていた。フライト中は暇だから、彼と時々適当に会話をしながら、時間を潰すことにした。

 飛行機は一気に加速をし、急上昇をしながら雲の上まで飛び立った。バンクーバーは曇りだったけど、雲の上にでると、窓からはまぶしい太陽の光が注ぎ込んできた。水平飛行になると、ジュースやコーヒーとスナック菓子のサービスが出てきた。元々バンクーバーの空港で朝食をとろうと考えていたが、タクシーがこなかった為、時間との戦いで朝から何も食べておらず、腹が減ってしかたなかった。なので、サービスで出されてほんのわずかのピーナッツ菓子がとても美味く感じてしまった。

 時間はあっというまで、飛行機は徐々に高度を落としシアトル周辺が見えてきた。結局、追い風にでも乗ったせいなのか、フライト時間は40分位でシアトル・タコマ空港に到着をしてしまった。飛行機を降りる際、隣の若者が、
「日本に帰るまであと、何回乗り換えるの?」となんだかおちょくってるのか、日本が偉い遠いところと勘違いしてるのか聞いてきた。
「ん?何回?シアトルから成田までは直通だよ。じゃあね。」と挨拶をして別れた。

 シアトルの空港に到着し、スタッフにチケットを見せながら、成田行きの搭乗ゲートの場所を教えてもらった。米国での入国審査や荷物の受け取りもない。確か、ガイドブックか何かにバンクーバーからシアトル経由で成田に行く時はバンクーバーで入国審査の手続きができるとうる覚えで聞いていたが、何だか不安だったので念のため航空会社のスタッフに質問をしてみたら、荷物はここでは受け取らず、そのまま成田行きである自分の乗る飛行機に自動的に積み込まれるから、ここで受け取る必要はないと言われ安心した。

 次の成田行きの便まで3時間近くあったから、昼食をとることにした。近くのショップに立ち食いうどん屋もあったが、バーガーキングにした。WHOOPERのセットをどうしても食いたかったからだ。バーガーキングの店は人気があるのか結構列で並ぶハメになった。

 昼食後は土産物屋をぶらぶらと周り、時間を潰した。空港内だから全面禁煙なのが辛い。


シアトル〜成田までの飛行機。一ヶ月におよぶ長い旅路がこれで終わる。


 ようやくアナウンスが入り、成田行きの飛行機に乗ることができた。帰りも何故か満席であった。座席も運悪く、真ん中の4列シートの左から2番目。その上、すぐ近くに小中学生らしき軍団のご一行様達が、座っていた。彼らは元気一杯だからうるさくて仕方ないのは容易に予想できた。案の定、そのご一行を引率している添乗員さんも、行きのフライトで散々な目にあったのか。「いい、みんな飛行機にのったら静かにしてるのよ。今度騒いだら頭ひっぱたくからね。」と厳しく一喝していた。しかし、添乗員さんが自分の席に移るとすぐにわいわいがやがや騒ぎ始める始末だ。特にリーダー各の少年がうるさく、食事の際に利用するトレーがベタベタしてたため、「何このトレー。ベタベタしてるじゃんかよう。」と不満をでかい声でまくしたてた。何もそんなことで、いちいち騒がなくてもと思いながら、俺は彼らの様子を否が応でも見せ付けられるハメになった。う〜ん、疲れるフライトになりそうだ。

 そのご一行の添乗員さんは、時折注意をしに来てたが騒ぎが収まるのはほんのわずかで、いなくなるとすぐにもとの木阿弥にもどった。特に、リーダー各の少年がひどすぎた。飯の時間になると、ビーフかチキンを選択するのだが、たまたまビーフの食事が品切れなったため、また不満を大声でまくしたてた。
「え〜、ビーフないのー。俺ビーフがいい。おいXXX!交換しろ!」スチュワーデスも周りの客に気を使ってか、人差し指を口元に持っていき、「静かにしなさい」とジェスチャーをした。彼はその後、諦めきれないのかぶつぶつと文句をいいながら機内食を食べていた。

 食後彼らはウノをやり始め、多少は静かになったが、時折「ウノー!」とでかい声が聞こえてきた。俺もそんな連中のうるささにつき合わされるのも疲れるので、音楽を聴いたり、映画を見たりと神経をそちらに移すことにした。映画は「アイスエイジ」というのを中国語字幕で上映されていた。

 映画の上映が終わると、機内の窓は閉められ就寝タイムとなる。帰りの飛行機というのは結構旅の疲れがどっと出てくるので、意外と寝れるものなのだが、今回は全く寝ることができなかった。自分の座ってる座席がなんか人と人とにはさまれているので、落ち着かなくしばらく機内の後方にあるスチュワーデスが離陸時や着陸時にすわるシートに座り、早く着かないかなーとずっと考え続けた。

 あまり、この席にずっと座ってるとスチュワーデスさんの視線がだんだん気になってきたので、おとなしく自分の席に戻った。しかし、暇だ。飛行機の中で練らないというのは非常に苦痛である。適当に目をつぶりながらその内寝るのをまった。やがてなんだかうとうととし始めたとき、隣に座っていた、中国人のおばはんにいきなりエルボーを食らわされた。
「な、なんだ?」と目を覚ますと、そのおばはんは訳のわからん中国語でわめきはじめた。隣の旦那さんが必死に抑えてる。旦那さんの押さえで、そのおばはんはすぐに我に帰り、落ち着きを取り戻した。恐らく、悪い夢でも見てショックでおきてしまったのであろう。しかし、この騒ぎで俺は完全にまた目がさえてしまった。もう寝るのは諦めよう。こうなったらひたすら、おきているしかない。

 そんな苦痛な時間が何時間続いたであろうか?機内が少しづつ活気ついてきた。どうやら朝食の時間が来たようだ。これで、少しは退屈さがまぎれる。

 やがて、飛行機は大きく旋回し、成田空港に到着をした。飛行機のタラップに下りると、ものすごい熱気にさらされた。
「うわぁ。あちい。日本ってこんなに暑いの?」どうもこの年の日本はものすごい酷暑におおわれていたようだ。成田のターミナルに表示されていた気温は36度を示していた。ターミナルの外で十数時間ぶりにタバコを吸う事ができた。たまたま、ガラスに移った自分の姿をみると何だかやせたような感じであった。(実際家に帰って体重計を見たら、7kgも減っていた。)

 帰りは成田エクスプレスで帰ることにした。途中車内から真っ赤に染まる夕日がなんだか、この旅を終えるのにふさわしいくらい印象的であった。

 この一ヶ月の旅でいったい何を得たのかは、その時まだ整理がつかなくわからなかった。その時わからなくても、時間が経つにつれ、何かのきっかけでわかる事もあろう、旅とはそんなものだ。ただ、はっきりと実感したこと、それは「旅は体力勝負。三十路の半ば近くでのバックパッカースタイルは非常に疲れる。」である。旅に出る前は、いろいろと旅のイメージを頭の中で想い描いた部分があったが、現実にぶちのめされたことが山ほどあった。まあ、この現実も時間が発つにつれいい思い出に変化していく良さは十分わかっているが...。旅とは、その場でよかった部分と後々になって、じわ〜っと良くなっていく部分の2面性を秘めてると思う。

 長いようであっというまの一ヶ月カナダ一人旅。これにて終了だ。

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